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【京都】“京の七口”ぐるっと一周

洛中洛外の境目、「口」は古くから大切な都の出入り口でした。「京の七口(ななくち)」として、たくさんの言い伝えがありますし、秀吉が外敵から守るためにぐるっと築いた堤=御土居(おどい)も知られています。都の外周を、ぐるっと一回り。現在でも残る遺稿をたずね、栄華をしのび、天下取りに血眼になった秀吉に思いを馳せてみましょう。

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更新日: 2024年4月24日

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「口」って?

https://ja.wikipedia.org

京都は四方のうち三方を山に囲まれ、自ずから出入り口が決まってくる地形。それでも京の出入口を表す言葉としての「口」は、古く鎌倉時代後半から使われていたようです。室町時代になると幕府、寺社、朝廷(公家)など、時の権力者が「七口の関」と称される関所を設け関銭、つまり通行料を徴収するようになります。

その後、豊臣秀吉が都の周囲をぐるっと囲む土塁、御土居を築き、ところどころに開放する「口」を設けたのが、のちに江戸期になり「七口」という表現が定着していきます。

秀吉当時には「七口」ではなく、「十口」あったとか。現在使われる七口は、北から 鞍馬口・ 大原口・荒神口・粟田口(三条口)・伏見口(五条口)・竹田口・東寺口(鳥羽口)・ 丹波口・長坂口の9つが知られています。現在の風景をたずねつつ、近くの観光スポットや名店も紹介しましょう。今回登場するのは、「京都御所」をはさんで北側にある4つの口です。

関所とともに巡る観光名所

■鞍馬口 ~有名寺院とともに~

鞍馬口は賀茂川に架かる出雲路橋の西側にあり、鞍馬にいたる街道が伸びていました。秀吉が築いた御土居の出入口もここに有り、その名残として「鞍馬口町」の地名が残っています。ここから西に延びる道路には鞍馬口通という通り名が残され、その出雲寺橋から西に鞍馬口通を300m程進むと京の六地蔵巡りの一つ上善寺があります。

上善寺は863年比叡山の僧・円仁(慈覚大師)が天台密教の道場として現在の地より西方に創建したのが始まり、後に柏原天皇の勅願寺として栄えました。1594年、秀吉の京都改造により現在地に移され、同時に宗派も浄土宗に改宗させられました。秀吉は権力を思いのままに操り寺町の整備に着手した時代です。

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境内東側の墓地内には「長州人首塚碑」があり、禁門の変で亡くなった長州藩士8名が弔われています。また、明治時代に起こった廃仏毀釈により、鞍馬街道の入口にある深泥池の畔にあった地蔵菩薩がこの寺に移された後、鞍馬口地蔵と呼ばれるようになります。

この地蔵菩薩は都に古くから伝わる地蔵菩薩で平安時代の参議、小野篁(おののたかむら)が一本の桜木から六体の地蔵菩薩を刻んだのが始まりとしています。その六体地蔵は都に通じる主要街道口に安置され、その地蔵を巡拝する風習が「六地蔵めぐり」として現在にのこっています。

鞍馬口

京都府京都市北区出雲路立テ本町
見学自由
なし
アクセス:地下鉄烏丸線鞍馬口駅下車東へ徒歩570m

上善寺

京都市北区鞍馬口通寺町東入ル上善寺門前町338
075-231-1619
10:00~16:00
アクセス:地下鉄「鞍馬口」下車 東へ徒歩5分。市バス「出雲路橋」下車 西へ徒歩3分

■大原口 ~命がけで超えた峠道~

寺町今出川付近には若狭につながる若狭街道(鯖街道)が延びており、その出入り口を大原口と言いました。そのため今でもこの辺りには大原口町の地名が残っています。豊臣秀吉の築いた御土居の出入口も現在の河原町今出川交差点の西側にあったことから八瀬大原を経て朽木・若狭につながりました。

昔の若狭街道は大見尾根を経由する山道であったほか、京都を結んだ街道すべてを鯖街道と呼んでいたらしく、若狭湾で取れたサバは徒歩で京都に運ばれました。生サバを塩でしめて京都まで運ぶと丁度良い塩加減になり、京都の庶民を中心に重宝されたと言います。夏期は運び手が多く、冬期は寒冷な峠を越えることから運び手は少なかったようです。冬に針畑峠を越えて運ばれた鯖は寒さと塩で引き締められ、特に美味だったと言われています。

大原口

京都府京都市上京区寺町通今出川米屋町
見学自由
なし
アクセス:市バス3・17・201・河原町今出川バス停下車すぐ

鯖街道を利用して遠く奈良へも塩等を多く運んでいたとみられます。その鯖街道の終着地点が大原口だったので、鯖を取り扱う店が多く存在したと言い、今回はその中から2店舗紹介します。

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花折れ 下賀茂店

まずは下賀茂神社の向かい側にあるお店“花折れ”さん。本店創業は大正2年の実績を誇る鯖寿司屋で、創業時は京料理の仕出し屋からの始まりで味は確かなものです。店内で頂くこともできますが下賀茂神社参拝の御帰りにお持ち帰りにぜひどうぞ♪

花折れ 下賀茂店

京都府京都市左京区下鴨宮崎町121
075-712-5245
9:00~18:00
1月1日
アクセス:京阪本線「出町柳」西出口徒歩10分市バス「新葵橋」下車前4系統・205系統
http://www.hanaore.co.jp/user_data/shop.php

満寿形屋

次に河原町今出川を北へ徒歩3分枡形商店街の中にある“満寿形屋”さん。この地で80年鯖寿司を作り続ける人気店、鯖寿司は京都の昔ながらの作り方で、うどんに丼ぶりものも取扱い、鯖寿司うどんのセットが人気メニューです。同志社大学が近くに有る事から学生さんにも人気の店です。

満寿形屋

京都府京都市上京区桝形通出町西入ル二神町179
075-231-4209
12:00~18:00
水曜
京阪出町柳駅 徒歩5分くらい。市バス 河原町今出川停から徒歩3分くらい

■荒神口 ~時代に取り残された道〜

荒神口は北白川志賀峠を経て琵琶湖・西近江路へとつながる街道(志賀越、今路越等とも言われた)が延びていました。府立医科大学の南、河原町通の交差点に「荒神口」と言う地名が残っていて、御土居の出入口もその西側にあったと言われています。

志賀峠は古くから京と近江方面を結ぶ内陸交通路として栄え、室町時代には「今路道」という率分所(税関の様なもの)が設けられていました。織田信長の入洛時は事前にこの街道の整備が命じられたが近江との主要交通路が三条街道(東海道)に移ることにより街道としては寂れてしまったようです。

「荒神口」を西に行くと護浄院があります。通称「清荒神(きよしこうじん)」の名前で親しまれている天台宗のお寺です。又「荒神口」という地名はこのお寺に由来している地名です。境内に鳥居があるのですが、かつての神仏習合の時代の名残といいます。本尊の清三宝大荒神は、光仁天皇の皇子・開成親王が摂津国勝尾山で修業した際に、あらわれた荒神の姿を感得して自らその姿を刻んだと伝えられるもので、日本最初の荒神を祀る霊場として一寺を創建したのが現在の護浄院(清荒神)の始まりと伝わっています。

光仁天皇の皇子・開成親王が刻んだと伝えられる本尊の三宝大荒神は、悪魔降服の尊体で信仰者はその威力によって「七難即滅」「七福即生」、一切の苦悩から救われるといわれています。一般の家庭では、火の守護神として炊事場のかまどの上に祀られ、家内安全、家業繁栄、除災招福、火難即滅のご利益があるとされています。また、尊天堂に安置されている福禄寿尊は「京の七福神」の一つとして知られています。

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荒神口

京都府京都市上京区荒神町
無し
自由
無し
アクセス:市バス 荒神口下車 徒歩約4分

護浄院【通称名称】清荒神(きよしこうじん)

上京区荒神口通寺町東入荒神町122上京区荒神口通寺町東入荒神町122
075-231-3683
8:00~16:00
市バス 荒神口下車 徒歩約5分

■長坂口 ~光悦文化が残る~

長坂口は古くから北区鷹峯旧土居町に在ったと言われ、御土居も後に出来た事で旧周山街道の出入り口になりました。京見峠を越え杉坂に至り周山・若狭への道が旧周山街道でした、現在はR162が開通した為こちらが周山街道と言われています。

鷹峯と周辺地域一帯を平安時代には「栗栖野」(くるすの)と呼び、代々の天皇が都に近いこの地に遊猟、鷹狩に興じていた為、鷹峰と言われる様になりました。戦国時代・豊臣秀吉が外敵の侵入に備えて御土居を構築、洛外とされた当地は辻斬りや追いはぎが出没するなど、相当に治安が悪化していたと言います。

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江戸時代、居住を希望していた本阿弥光悦が家康より御土居以北の原野を拝領し、一族縁者と移り住み鷹峯の地に集落(光悦村)を形成しました。本阿弥屋敷を中心として光悦を慕う芸術家や豪商も移り住んだことで、京都の芸術・文化の一大拠点となっていきます。光悦没後、本阿弥家は土地を幕府に返上しこの地を離れたが、18世紀初頭には光悦寺・妙秀寺・常照寺といった法華宗寺院が建立されることで、宗教色の濃い集落が形成されて行った様です。

南側は江戸前期~明治初年まで道を挟んで東側に広大な薬草園(京野菜など)を開き、御典医の藤林氏が管理経営して幕府に納めていたそうです。現在の藤林町がその町名を残しています。西側には道筋に沿って米屋・材木屋・鍛冶屋・絹屋など様々な商家が軒を連ねていて「船の着かない港」と云われていた一時期もあったといいます。

長坂口

北区鷹峯旧土居町
アクセス:地下鉄北大路駅下車乗換え市バス北1鷹峯上ノ町バス停下車付近一帯が長坂口と言われた。

光悦寺

北区鷹峯光悦町29
075-491-1399
8:00~17:00
11/10~11/13
アクセス:市バス 源光庵前下車 徒歩約3分

■粟田口 ~雅を求めし古の街道~

粟田口は東海道・東山道・北陸道の終着地点、近世以前に鴨川の東岸に関が設けられたことがあり、鴨川三条大橋の西岸に秀吉の命により御土居が設けられました。現在は蹴上の近くに粟田口という地名が残されています。

三条神宮道の交差点を東に行くと粟田口の石碑が有りますが、ここの交差点より北一帯が岡崎公園と言われる文化ゾーンになり、美術館・動物園など市民の憩いの場として、また、観光客の休息地点にもなっています。

https://ja.wikipedia.org

粟田口の近くにある粟田神社はスサノオノミコト・オオナムチノミコトを祭神として祀り、厄除け・病除けの神と崇敬され、京都の東の出入口である粟田口に鎮座する為、古来東山道・東海道を往来する人々は旅の安全祈願また道中の無事を感謝して神社に参拝、いつしか旅立ち守護・旅行安全の神として知られるようになりました。

10月の粟田祭には神輿に先行して剣鉾が巡行するのですが、剣鉾は祇園祭の山鉾の原形と云わるもので、 室町時代には祇園会が行われない際は粟田祭をもって御霊会としたと伝えられています。

粟田口

京都市東山区三条通白川橋東入三丁目夷町175-2
無し
自由
なし
アクセス:市営地下鉄・東西線「東山」駅下車 徒歩東へ約 10 分

粟田神社

京都市東山区粟田口鍛冶町1
075-551-3154
6:00~17:00
地下鉄東西線 東山駅下車徒歩7分 ・ 市バス 神宮道下車徒歩5分
http://www.kyoto-16sha.jp/j_awata.html

■伏見口 ~秀吉と栄枯盛衰~

https://commons.wikimedia.org

豊臣秀吉が開いたといわれている伏見街道は、京都の五条通を始点とし鴨川東岸を南下します。その街道の始点が伏見口になります。御土居の出入口が五条大橋西詰のあたりと言われ、街道は伏見の京町通につながります。伏見(中書島)から深草藤森神社経て、西国大名の参勤交代の道ともなったようです。江戸時代から都と港湾都市伏見をつなぐ通運の道、そして周辺名所を巡る観光の道として賑わいました。

現在の五条大橋は桃山時代に豊臣秀吉の命により架けられました。それまでの五条橋は今の松原橋の位置に架かっており、御土居築造に伴って従来の橋は撤去され、郊外へ続く街道筋に当たる六条坊門通に架けられました。以降は通り名を五条通り・橋は五条大橋と呼ばれる様になったのです。

https://ja.wikipedia.org

五条大橋東畔近くに秀吉の開創した東山大仏(方広寺)が建てられました。昭和10年の「鴨川水害」で上流の団栗橋・松原橋と共に流され、現在の橋は昭和34年に架け替えられたものです。秀吉が母の菩提を弔うために建立した東山大仏は現在東南に500m程行った所にあります。当時の大仏や伽藍は後の火災や震災によって焼失し、現在の大仏は当時のものより縮小された大仏になり境内も当時とは比べ物にならないぐらいに小さくなっています。

境内に残る大きな梵鐘は豊臣秀頼によって作られた物ですが、このなかに刻まれた銘文の「国家安康」「君臣豊楽」の句が、徳川家康の逆鱗にふれ大坂の役による豊臣家滅亡を招いたとされています。

伏見口

京都府京都市東山区五条通鴨川
無し
自由
無し
アクセス:京阪清水五条駅3番出口→徒歩すぐ、またはJR京都駅→市バス4・17・205系統で7分、バス停:河原町五条下車、徒歩すぐ

方広寺

京都府京都市東山区正面通大和大路東入茶屋町
075-561-1720
9:00-16:00
無し
アクセス:市バス 206、208、207、特207 で「博物館・三庶O間堂前」または「東山七条」下車北に徒歩5分。

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