おすすめ旅行を探すならトラベルブック(TravelBook)

ホテル・航空券の料金比較・予約サイト

【沖縄】轟の壕の歴史を知り平和を想う。周辺の史跡もまとめて紹介

沖縄県は、日本でも人気のある観光エリアです。日本にいながら南国リゾートを感じることができ、食文化や方言など沖縄ならではの楽しみもあります。そんな沖縄県には、今もなお戦争の跡が残っており日本の歴史を感じることができます。1945年の3月26日から始まったアメリカ軍とイギリス軍によって行われた沖縄戦争では、多くの犠牲者が出ました。そして沖縄県の糸満市(いとまんし)には今も多くの戦争の歴史が守られており、修学旅行生や観光客が学べる資料館や施設などが整っています。そこで今回は、沖縄県糸満市(いとまんし)にある轟の壕の歴史や近隣の史跡をまとめて紹介していきますので、是非参考にしてみて下さい。糸満市は、沖縄戦で最も被害が大きかったエリアなので様々な場所に塔や石碑などが存在しています。車をレンタルするとスムーズに見て回ることができるのでおすすめです。

続きを読む

更新日: 2023年11月21日

広告

本ページではプロモーションが含まれます
当サイトでは施設やサービス(以下、サービス等)の掲載にあたり、ページタイトルに規定された条件に合致することを前提として、当社編集部の責任においてサービス等を選定しおすすめアイテムとして紹介しています。

なお当サイトではユーザーのみなさまに無料コンテンツを提供する目的で、オンライン旅行代理店やレストラン予約サイトが提供するアフィリエイト・プログラムに参加し、サービス等の紹介を通じた手数料の支払いを受けています。掲載の順番はサービス等の提供会社により支払われる報酬も考慮されている場合があります。

轟の壕とはどのような場所?

轟の壕(とどろきこう)とは、沖縄本島南の糸満市にある戦争の遺跡のことを言います。太平洋戦争末期に沖縄の住民の600人以上が避難していた自然洞窟です。洞窟の開口部は直径30m、全長約100mもあり迫力があります。轟の壕は、個人での見学や説明を聞きたい人のためのガイド同行見学ができます。歴史を見て感じることができるため、修学旅行生の学習の場としても利用されています。那覇空港から車で約30分で到着することができます。

轟の壕の歴史

轟の壕は、アメリカ軍による火炎攻撃や日本軍による暴行・射殺などの悲しい歴史があります。太平洋戦争末期の轟の壕には、600~1000人以上の住民や日本兵がいたと言われています。当時は、食べ物もなく苦しい思いをしていた人々や餓死した人がたくさんいました。轟の壕内に入ると、暗く当時の重苦しい空気の一面を想像することができます。祭壇や石碑などを見ることができます。

広告

轟の壕の交通アクセスは?

那覇空港近郊からレンタルカーを利用する方は、約30分で行くことができます。沖縄本島の南部に位置しています。那覇から国道331号線をひめゆりの塔方向に進むとあります。駐車場は完備されていないので他の車や人の邪魔にならない程度に路駐をましょう。バスで行く際の最寄りのバス停は、M-7 伊敷です。交通機関よりも自動車を利用したほうが時間を気にせずに立ち寄れるのでおすすめです。

近くには「糸洲の壕」もある

糸洲の壕(ウッカーガマ)は、第二野戦病院として使われた自然壕です。積徳高等女学校生徒の25人が従軍看護婦として働いていました。その後そのうち2人が犠牲となり、その他の23人は捕虜となりました。糸洲の壕内は、湿度が高く足場が悪いため履きなれている靴や汚れても良い靴を準備しておくと良いでしょう。さらに歴史が気になる方にはドキュメンタリー映画のふじ学徒隊を見てみると良いでしょう。

近隣の史跡1:糸洲第二外科壕跡

糸洲第二外科壕跡へは国道331号線へ行き糸洲交差点に目印があります。糸洲集落北側に位置しています。糸洲第二外科壕跡入り口前にがスペースがあるので車でお越しの方はそこに停めると良いでしょう。糸洲第二外科壕跡入り口は二か所あるためアクセスのしやすい方を事前確認しておきましょう。看板があり突き進むと石碑があります。轟の壕からほど近いので合わせてみて回ることをおすすめします。

広告

広告

広告

のおすすめホテル

トラベルブックの今週のおすすめ

広告

運営会社