新内節(しんないぶし)も宮薗節(みやぞのぶし)も江戸時代に誕生した浄瑠璃(じょうるり)の一流派です。
現在にも伝わる浄瑠璃には8つの流派があります。新内節も宮薗節もそのひとつであり、さらにこの二つはもともとは豊後節(ぶんごぶし)という浄瑠璃から派生したものです。豊後節の衰退後、それぞれの道を歩んできた新内節と宮薗節。歌舞伎や遊廓という庶民文化に根付いて発展してきました。
邦楽を語るには欠かせない浄瑠璃ですが、新内節や宮薗節はどのように発展してきたのでしょうか。それぞれの歴史などについてまとめてみました。
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新内節・宮薗節とは?意外に知らない基本情報を見てみよう!
新内節と宮薗節はどちらも浄瑠璃の一流派です。浄瑠璃とは三味線音楽の一種で、三味線を演奏する三味線方(しゃみせんかた)と歌を担当する太夫(たゆう)によって演奏されます。
新内節は浄瑠璃の豊後節から派生しましたが、豊後節が歌舞伎音楽として発展していったのに対し、花街(はなまち)などの流しや門付け(かどづけ)として発展していきました。女性の哀しい人生を歌うことで遊廓の女性たちの間に広まりました。
宮薗節も新内節と同じく豊後節から派生しました。創始者の名前をとって「薗八節(そのはちぶし)」とも呼ばれています。1993年には重要無形文化財に指定されて、宮薗節保存会の会員が保持者として総合認定されました。
新内節・宮薗節を広めた人って?気になる「鶴賀新内」「宮古路薗八」について
新内節の創始者は鶴賀新内(つるがしんない)という江戸幕府の御家人です。新内は初代鶴賀若狭掾(つるがわかさのじょう)という鶴賀節(つるがぶし)の創始者の門弟でした。新内は鼻にかかる美声の持ち主で、人々はその声に魅了されたといいます。この鶴賀新内の時代はまだ新内節としての名称は誕生しておらず、次の代の鶴賀新内を初代鶴賀新内とすることが多いです。2世鶴賀新内(初代鶴賀新内)は盲目であり、彼も初世新内と同じく鼻にかかる特徴的な美声をもっていました。「節落し(ふしおとし)」というその独特な歌声が人気を博し、1777年頃から新内節と呼ばれるようになりました。
宮薗節の創始者は宮古路薗八(みやこじそのはち)です。豊後節の創始者である宮古路豊後掾(みやこじぶんごのじょう)の高弟でした。当初は豊後掾のワキをつとめていましたが、その後独立し、新しい流派を立てました。その後弟子の2代薗八(初代宮薗鸞鳳軒(みやぞのらんぽうけん))が宮薗節として大成しました。
現存する浄瑠璃は全部で8流派ですが、宮薗節も新内節もそのうちの一つであり、日本の古典音楽において重要な役割を担っているといえます。
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いつからあったの?新内節・宮薗節の歴史をたどってみた!
新内節も宮薗節もその歴史をたどると「豊後節」という浄瑠璃に行きつきます。心中物を得意としていた豊後節は江戸時代、江戸や名古屋にて大流行しましたが、その人気から心中の多発など風紀の乱れを憂慮した江戸幕府により激しい弾圧を受けます。豊後節の創始者であった豊後掾が帰京後、門弟たちはそれぞれの流派を打ち立てました。
そのうちの1人が宮古路薗八であり、彼が宮薗節を始めました。
薗八と同じく豊後掾の門弟であった宮古路加賀太夫(みやこじかがだゆう)は1745年に富士松節(富士松派)を起こします。そしてその門弟であった鶴賀若狭掾が鶴賀節(鶴賀派)を始めます。若狭掾の門人の1人が鶴賀新内であり、後に新内節を始めました。その後人気を博した新内節は、富士松派・鶴賀派を包括し、現在に至ります。
いま有名な「4代目岡本文弥」さんてどんな人?
4代目岡本文弥(おかもとぶんや)さんは新内節の発展に多大な貢献をした一人です。明治から平成を生涯現役で貫き通し、新内節の近代化や普及に努め、邦楽界だけにとどまらず広くその名が知られていました。
新内流しであった母親から浄瑠璃を習っていた岡本さんは1913年に富士松加賀路太夫(ふじまつかがたゆう)という新内節の太夫を名乗ります。大学中退後、文芸誌の編集者として活躍し、昼は編集の仕事、夜は新内流しという日々を送っていました。そして1923年、江戸時代末期には衰退していた岡本派を母と共に再興させます。4代目家元岡本宮太夫(おかもとみやたゆう)を名乗り(のちに文弥と改名)、同年関東大震災により勤務先が倒産したのを機会に新内に専念するようになりました。
古典曲の継承につとめる一方で、精力的に新作の新内を創作し、その数は300曲以上にも上ります。プロレタリア演劇に影響を受けた作品や、舞踊家との共同作業による作品など次々と新しい風を取り入れ、新内の道を開拓していきました。
1996年10月6日に満101歳の生涯を閉じました。新内研究だけではなく随筆家、俳人としても名高く、多くの著書を残しています。
これであなたも新内節・宮薗節マスター!注目の明烏をご紹介
新内節の名曲のひとつに『明烏(あけがらす)』というものがあります。本名題は『明烏夢泡雪(あけがらすゆめのあわゆき)』であり、初代鶴賀若狭掾によって1772年に作られました。その3年前に実際にあった事件をもとに作られたといいます。登場人物は遊女であった山名屋浦里(やまなやうらざと)とその客の春日屋時次郎(かすがやときじろう)です。二人の切ない恋を歌ったもので、最後は情死してしまいます。哀調を帯びた曲調やストーリーが当時大人気となり、現在も広く愛されている名曲です。
この作品は他の浄瑠璃でも多く作られ、清元節(きよもとぶし)では『明烏花濡衣(はなのぬれぎぬ)』、常磐津節(ときわずぶし・ときわづぶし)では『明烏夢泡雪(ゆめのあわゆき)』、義太夫節(ぎだゆうぶし)では『明烏六花曙(ゆきのあけぼの)』、富本節(とみもとぶし)では『明烏写一筆(ちょっとひとふで)』となっています。
小説化もされており、滝亭鯉丈(りゅうていりじょう)や為永春水(ためながしゅんすい)ら作の『明烏後正夢(のちのまさゆめ)』は人情本の最初の作品として知られています。
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