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【伝統芸能】都々逸入門!日本文化のひとつを知ろう

更新日: 2023年11月21日

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都々逸(どどいつ)という響きを聞いたことがある方は多いかと思いますが、都々逸はどのようなものなのかしっかりと説明できる人は少ないのではないでしょうか。
都々逸はもともとは三味線を伴奏に歌う七・七・七・五から成るとても短い歌のことです。俳句や短歌のようですが、江戸時代に庶民の間で流行したこともあり、その内容は現代の私たちにも通ずるものも多いです。そして都々逸は私たちの身の回りにも溢れています。知らず知らずのうちに接している都々逸。都々逸とは何であるのか、その歴史、都々逸の楽しみ方、現在も受け継がれている名作など都々逸について分かりやすくまとめてみました。

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都々逸とは?意外に知らない基本情報を見てみよう!

都々逸とは江戸末期に初代都々逸坊扇歌(どどいつぼうせんか)という寄席芸人(よせげいにん)によって大成されました。七・七・七・五調のリズムが基本であり、三味線と共に歌われることが多いです。基本の七・七・七・五調のリズム以外にも五字冠り(ごじかむり)と呼ばれるものもあり、そちらは五・七・七・七・五調のリズムになっています。もともとは男女の恋愛がテーマになっているものが多く、情歌(じょうか)とも呼ばれます。次第に男女の恋愛以外にも、年中行事に関する都々逸、名所に関する都々逸、文化に関する都々逸など趣向が凝らされた様々なテーマの都々逸も歌われるようになりました。一曲一分足らずの短い歌であり、だれでも気軽に歌えることからちょっとした酒の席などで大変もてはやされました。
実は私たちの周りにはたくさんの都々逸が溢れていて、「あの歌も都々逸だったんだ」と気付かされるような、一度は聴いたことのある都々逸もたくさんあります。

都々逸を広めた人って?気になる「初代都々逸坊扇歌」について

都々逸を始めた人は初代都々逸坊扇歌という寄席芸人です。江戸末期に活躍していました。都々逸坊扇歌は1804年常陸(ひたち)国佐竹村(現在の茨城県常陸太田市)の医師の家庭に生まれました。幼名は「子之松(ねのまつ)」(その後福次郎と改名)と言いました。
七歳の時に、兄と共に疱瘡(天然痘)にかかってしまいます。医師であった父は疱瘡には大毒だと言われている青魚を兄と子之松に食べさせました。その結果、兄は失明、子之松は半失明という結果を招いてしまいます。兄はその後若くして亡くなりました。
子之松は目がほとんど見えなくなってしまいましたが、その代わりに聴覚が冴えていたようで、姉が稽古していた三味線や小唄に興味を持ち出し、芸事に夢中になっていきました。17歳の時に放浪の旅に出て、「よしこの庵山歌」という名で三味線を演奏するようになります。その後1824年頃には江戸に進出、有名な落語家であった初代船遊亭扇橋(せんゆうていせんきょう)に弟子入りし、都々逸坊扇歌と改名しました。扇歌は牛込(うしごめ)(現在の東京都神楽坂付近)にあった藁店(わらだな)という寄席を中心に活躍し、江戸で一番ともいえる人気芸人となっていきました。扇歌が現れると周囲八丁四方の客を奪ってしまうと言われたことから「八丁あらし」と揶揄されるほどの人気ぶりでした。

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いつからあったの?都々逸の歴史をたどってみた!

都々逸の発祥は都々逸坊扇歌(当時の名は福次郎)が17歳の頃にさかのぼります。扇歌は上方(現在の関西地方)で流行していた「よしこの節」と尾張熱田(現在の名古屋)で歌われていた「神戸節(ごうどぶし)」をヒントに都々逸を創作したと伝えられています。よしこの節に神戸節の合いの手であった「どどいつどどいつ」もしくは「どどいつどいどい」を取り入れたそうです。
都々逸の節回しは比較的簡単であったため、歌好きであった江戸の人々の間に瞬く間に広がっていきました。誰でも簡単に歌える都々逸は江戸の庶民の間で大衆娯楽として定着していったのです。
都々逸が完成した1790年代には男女の恋愛を歌ったものが多く見られましたが、1850年代頃の最盛期にはさまざまなテーマの都々逸が歌われるようになっていきました。1870年代(明治期)には思想に関わる都々逸も歌われるようになります。しかし1930年代(昭和期)になると都々逸は次第に衰退していきました。

いま有名な「柳家 紫文」さんてどんな人?

柳家紫文(やなぎやしもん)さんは落語協会所属の三味線漫談家です。常磐津節(ときわずぶし)、小唄(こうた)、端唄(はうた)、長唄(ながうた)、新内(しんない)などの三味線を演奏し、さらには華道や日本舞踊の名取でもあり、「七つの名を持つ男」と自称しています。
1988年岸澤式祐(きしざわしきすけ)の名で常磐津節三味線方を務め、歌舞伎の舞台にも出演します。1995年には二代目柳家紫朝(やなぎやしちょう)に入門しました。柳家紫朝は新内、粋曲(すいきょく)、音曲(おんぎょく)、都々逸の名跡です。紫文さんは歌舞伎等の舞台をこなしながら高座(こうざ)にも上がり始めました。
紫文さんは都内の寄席やテレビ番組でも活躍しています。弟子たちと共に「柳家紫文と東京ガールズ」という邦楽バラエティバンドを結成し、誰でも楽しめる明るく楽しい邦楽を目指し、日々活動しています。著書には『紫文式 都々逸のススメ』など都々逸に関するものがいくつかあり、都々逸を分かりやすく、面白く広めています。

紫文式 都々逸のススメ

柳家 紫文 (著)

これであなたも都々逸マスター!注目の高杉晋作の唄をご紹介

幕末に活躍した高杉晋作は都々逸が好きだったと伝えられています。機会があるたびに都々逸を即興で作り、歌っていたそうです。なんと折り畳みの三味線まで常備していたとも伝えられています。そんな高杉晋作が作ったと言われている都々逸の中で最も有名なものをご紹介します。

三千世界の鴉(からす)を殺し 主と朝寝(添寝という説もあり)がしてみたい

これは高杉晋作がお気に入りの芸妓「おうの」を想って歌った都々逸とされています。この都々逸にはいくつかの解釈があります。三千世界というのは「とてつもなく広いこの世界」を表す言葉です。
まず一つ目の解釈では、「カラスが鳴くと朝が来る。世界中のカラスを殺して朝が来なければ、あなた(おうの)とずっと一緒にいられるのに」という解釈です。
二つ目の解釈は次の通りです。遊女が客への愛情を誓う起請文(きしょうもん)というものがあります。その起請文に書かれた誓いを破ると熊野神社の使姫(つかいひめ)であるカラスが3羽死ぬとされています。そのことから「今までたくさんの男と起請文を書いてきた遊女ではあるけれども、世界中のカラスが死んでしまうことになっても、その誓いを裏切ってあなたと一緒に朝までいたい」というものです。
ちなみにこの都々逸は桂小五郎(後の木戸孝允)が作ったものという説もあります。

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