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広島平和記念資料館のメッセージ
広島平和記念資料館は、広島市中区の平和記念公園の敷地内にある原爆関係の資料を展示している博物館で、"原爆資料館"や"平和資料館"などと呼ばれています。1945年(昭和20年)に広島市に投下された原子力爆弾の惨状を伝え、核兵器のない世界を作ることを目的にして、1955年(昭和30年)に開館されました。
資料館ができる前から、広島市民によって被曝関係の資料が集められ、広島市中央公民館において公開、展示されていました。しかし、被曝資料が増加し続け、中央公民館の一室では保管しきれなくなりました。それと同時に、集められた資料をどのような形で平和のメッセージとして世界の人々に伝えられるかを模索していました。
開館当時の名前は「広島平和会館原爆記念陳列館」と呼ばれており、展示内容の見直しや展示館の改築に伴って1994年(平成6年)に現在の名称に変わっています。
広島平和記念資料館は丹下健三のデビュー作
広島市民によって集められた被曝資料をどのように公開しようかと模索していた頃、原爆の被害を直接受けた原爆ドームのある場所に平和のメッセージを伝える平和記念公園を作る計画が進んでいました。そのため、公園の設計者に選ばれた丹下健三氏が、広島原爆資料を保管し展示する建物もデザインすることになったのです。
丹下健三氏により設計された広島平和記念資料館は、本館と東館が渡り廊下で繋がり、モダンな中にも安定した美しさを持っています。
広島市再建も考えながら設計された広島平和記念資料館
丹下健三氏の平和公園の設計案は、公園のデザインだけではなく、都市計画とも結びついており、現在の広島の骨格にもなっています。当時はただの廃墟として扱われていた広島ドームをメインポイントにおいたのも若き日の丹下健三氏のアイディアです。そして、そのそばに近代的イメージの建物である広島平和資料館を配して、美しい一角を作り上げました。そんな広島平和記念資料館は、2006年に戦後建造物で初めて国の重要文化財に指定されました。
広島平和祈念資料館はピロティという建築技法を使っています。ピロティ(フランス語: Pilotis)というのは、杭(くい)という意味のフランス語で、ピロティ建築と言えば一階部分が柱だけで2階から上の部分を支えている建物のこと。丹下健三氏はピロティ様式を使うことで、『皆で力を合わせて支える』ということを象徴したかったそうです。
広島平和記念資料館の東館と本館の展示物
広島平和記念資料館は東館と本館が渡り廊下で繋がっています。東館の入り口から入館し、本館の出口から退館します。東館は、被曝があった以前と以降の広島の状態、なぜ、原爆が広島に投下されなくてはならなかったのか、広島市が現在に到るまでどのように平和のための事業に取り組んできたか、などを模型、写真パネル、ビデオなどで紹介しています。
また、地下のエクスビッションルームに飾られている「市民が描いた原爆の絵」は見どころのひとつになっています。
本館では、原爆の熱い放射線によって破壊された遺品や被爆資料から、原爆が投下された広島のすさまじさが伝わってきます。
主な展示物は、原爆が投下されてすぐの広島市街地の縮小模型や、「被爆再現人形」と呼ばれる、熱線で身体中の皮膚が焼けたまま炎の中を徘徊している被爆者を表している等身大ジオラマです。被爆死した動員学徒、3人の制服を組み合わせて作った人形、黒焦げの弁当箱や三輪車など、その瞬間まで「明日を夢見て」生きていた人々の遺品が展示されています。
三輪車
この三輪車は、当時3歳11ヶ月の鉄谷伸一ちゃんが広島市東白島町(爆心地から1500m)の自宅前で被爆した時に乗っていたものです。翌日、父親が遺体を見つけましたが、焼く気になれず、焼け焦げた三輪車と一緒に庭に埋めました。その40年後、墓所に移す決心をし、掘り起こし、葬式をしました。そのときに三輪車が、被爆資料として広島平和記念資料館に寄付されました。
懐中時計
展示されている懐中時計は、二川謙吾さんがいつも持ち歩いていた懐中時計で、時刻が8時15分で止まっています。自転車で走っているときに被爆し、全身焼けただれ、1週間後の8月22日に死亡したそうです。
三位一体人形
戦時中、広島市立中学校の1、2年生は、小網町にあった疎開作業現場で学徒動員として働いていました。ここでも多くの青年が被爆し、すさまじい崩壊の後には、遺骨が見つからない人も多くいました。
当時15歳の福岡肇さんの遺体も見つからず、唯一この学生服が残っていました。当時13歳だった津田栄一さんの帽子と12歳だった上田正之さんのゲートルを合わせて一体の人形を作りました。これがその人形で「三位一体の人形」と呼ばれ、広島平和記念資料館のシンボルとなっています。
オバマ元米大統領の折り鶴
第44代アメリカ合衆国大統領のバラク・オバマ氏は、2009年欧州連合との首脳会議でチェコの首都プラハを訪れた際に、「アメリカ合衆国は世界で唯一の核兵器を使用した国であることから、核兵器のない世界の実現のために行動すべきである」という演説をしました(プラハ演説)。その後、オバマ大統領はノーベル平和賞を受賞しています。
オバマ大統領は2016年5月27日にアメリカ合衆国の現役大統領としては初めて広島に訪問しました。この折り鶴はそのときに持参したもので、オバマ大統領のメッセージと共に展示されています。
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広島平和記念資料館の無料ガイドサービス
広島平和記念資料館の建物は、本館1,615平米、東館10,098平米もの広さがあります。そこに並べられた展示物をすべて見るとすると、少なくとも3時間以上必要ですが、滞在時間の平均値はほぼ45分だということです。誰もがあまりの悲惨さに胸を痛め、長時間滞在すると苦しくなってしまうようです。
しかし、せっかく広島平和記念資料館を訪れる際には、しっかり見るべきもの、知るべきものはチェックして欲しいものです。広島平和記念資料館では、広島市在住のボランティアグループである「ヒロシマピースボランティア」が無料でガイドをしてくれます。ボランティアの人たちの解説を聴きながら展示物を見て歩くと、約1時間の行程で一人で歩くよりずっと理解が深まることでしょう。
解説希望の場合は、広島平和記念資料館東館1階の総合案内で当日申し込みの受付が行われています。
広島平和記念資料館の付属施設、シュモーハウス
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20世紀の平和運動家として有名な、アメリカ合衆国のフロイド・シュモー(Floyd Wilfred Schmoe、1895年9月21日 - 2001年4月20日)は、広島の原爆投下で家を失った人々のために家を造る活動を行っていました。
現在シュモーハウスと呼ばれている建物は、その時に建造された家のひとつで、1951年(昭和26年)に集会所として作られ、地域での援助活動の場として活用されて来ました。2012年(平成24年)に広島平和記念資料館、付属展示施設として使われ始め、今では企画展も行われています。展示解説員が常駐し、展示内容などについて説明してくれます。1グループ10人以内、所要時間30分。ガイドは無料ですが、2週間前の予約が必須です。
広島平和記念資料館へのアクセス
広島平和記念資料館へはさまざまなアクセス方法が利用できます。
JR広島駅からなら路線バスを利用するのがいいでしょう。南口バス乗り場3番で広島バス24号(吉島)線「吉島営業所」行き、か「吉島病院」行きに乗り、「平和記念公園」で下車します。乗車時間は約20分です。
路線バス以外に、中国JRバスが運営する観光循環バス「めいぷる~ぷ」も便利です。ルートは3種類(オレンジルート、グリーンルート、レモンルート)あり、どのルートも「平和記念公園」を通ります。広島駅を起終点にしていますから、1日だけの滞在の場合にも便利です。
1日乗り放題のチケットが400円(2017年現在)ですから、お得に他の観光地も訪問できます。
また、広島市には路面電車が走っていることでも知られていますね。そのときの停留所から、広島港行(1号線)に乗り、「袋町」で下車するか、西広島行(3号線)、 江波行(6号線)または広電宮島口行(2号線)に乗り「原爆ドーム前」で下車します。
車の場合は広島ICより国道54号を使って、広島市内に入ったら、広島城・広島バスセンター方面を目指します。駐車場は平和大通りの周辺に有料のものが多数ありますので、駐車場探しに困ることはまずないでしょう。
広島平和記念資料館がある広島平和記念公園も散策しよう!
広島平和記念資料館がある広島平和記念公園もまた、丹下健三によって設計されました。原爆ドーム・原爆死没者慰霊碑・広島平和記念資料館をはじめ、多くのモニュメントがあります。広島平和記念公園の南には平和大橋・西平和大橋があり、日本人を父とする、「あかり (Akari)」シリーズで有名なアメリカ人彫刻家であるイサム・ノグチの設計です。
そのほか、被爆から10年後に12歳で亡くなるまで千羽鶴を降り続けた佐々木禎子さんをモデルにした像「原爆の子」もあります。
広島平和記念資料館のまとめ
戦争があったことさえ、知らない人も増えていると言われる昨今。広島平和記念資料館は日本人だけでなく、世界中の人に一度は見てほしい平和のための施設です。そうした思いを忘れないためにも、一度と言わず、広島を訪れた際はぜひ何度も訪れてみてください。