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【伝統芸能】河東節入門!初心者向け基礎知識をご紹介

更新日: 2023年11月24日

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河東節(かとうぶし)は邦楽の一ジャンルである浄瑠璃(じょうるり)のひとつの流派です。浄瑠璃は江戸時代に栄えた音楽で、三味線と歌による演奏スタイルをとっています。現在にまで伝わる浄瑠璃の流派は全部で8つ。河東節をはじめとして、浄瑠璃は歌舞伎の伴奏音楽として発展してきた歴史を持っています。
河東節も当初は歌舞伎の伴奏音楽として流行していましたが、時間の経過と共にお座敷音楽へと移行していきます。現在は歌舞伎で演奏される河東節はただ1曲ですが、それは歌舞伎界においてとても重要な演目となっています。河東節はどのような浄瑠璃なのでしょうか。300年の歴史を持つ河東節の世界を初心者の方にもわかりやすくまとめてみました。

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河東節とは?意外に知らない基本情報を見てみよう!

河東節は浄瑠璃の一流派です。浄瑠璃とは江戸時代より盛んになった三味線音楽のことで、三味線を演奏する三味線方(しゃみせんかた)と歌を歌う太夫(たゆう)による演奏のことです。現在では8流派の浄瑠璃が継承されており、河東節はその一つとなっています。
河東節は「江戸生まれ、江戸育ちの人により、江戸に合うように作られた」と言われており、江戸浄瑠璃の代表的な一流派と言えます。歌舞伎音楽として発展し、庶民から広く支持されていました。しかし後に出てきた豊後節(ぶんごぶし)や常磐津節(ときわずぶし・ときわづぶし)によってその人気に陰りが見えてくると、河東節はその地位を守るために豊後節禁止を幕府に働きかけたとも言われています。
江戸中期以降には歌舞伎音楽としての地位も失われ、吉原などのお座敷での浄瑠璃として富裕層の間で広まっていきました。細棹の三味線を用い、高音を響かせるのが特徴です。さっぱりとした豪気な語り口調は「いなせ(=男気があって粋な様子)」なものとして江戸の人々に愛されました。

河東節を広めた人って?気になる「十寸見河東」について

十寸見河東(ますみかとう)は河東節を創始した人物であり、同時に河東節の家元の名跡でもあります。
1684年、江戸日本橋品川町の魚商天満屋藤左衛門のもとに河東は誕生しました。しかし家業にはまったく興味を示さず、音曲(おんぎょく・音楽を用いた芸能)にのめりこみ、家業は倒産してしまいます。その後、半太夫節(はんだゆうぶし)を創始した江戸半太夫の元に入門しました。
1717年、独学にて作った「松の内」を江戸市村座にて演じます。これは半太夫節、式部節、手品節を取り入れたもので、ここが河東節の成立とされています。しかし、その当初はまだ半太夫節と呼ばれていました。この頃から江戸太夫河東と名乗るようになりました。

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いつからあったの?河東節の歴史をたどってみた!

河東節は1717年に創始されました。創始初期は半太夫節や式部節など他の浄瑠璃の影響を受けた語り口でした。歌舞伎音楽としてひろく庶民に支持されていましたが、その頃江戸で人気だった豊後節や常磐津節の勢いが増してくると、河東節はその座を奪われることになってしまいました。
当時、あまりの豊後節の人気ぶりに、風紀の乱れを心配した江戸幕府は禁止令を出しましたが、この禁止令の裏には河東節の働きかけがあったと言われています。江戸中期に入ると河東節は歌舞伎の伴奏音楽としてではなく、お座敷での浄瑠璃として広まっていきます。その中でも吉原との関係が深く、二代目や三代目の河東は吉原で暮らすほどでした。河東と同じく河東節の名跡には十寸見蘭洲(ますみ らんしゅう)がいますが、初代蘭州~三代目蘭州は妓楼(ぎろう・遊女を置いて客を遊ばせる家)の主人だったと言われています。
河東の名は創始以来、大正時代の11世まで受け継がれていたとされていますが、9世からは没後追贈されたものでした。河東節の全盛期は3世から6世に至る約60年間とされています。11世秀翁(しゅうおう)が没した後は、家元をたてず、「十寸見会」が組織されました。
第二次世界大戦後、秀翁の弟子であった山彦米子(やまびこよねこ)が山彦文子(ぶんし)と名乗り、十寸見会の初代技芸総代となりました。
3代目技芸総代であった山彦節子(せつこ)は平成6年に重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されました。平成21年には河東節三味線方の山彦千子(せんこ)が同じく人間国宝に認定されています。

いま有名な「市川團十郎」さんてどんな人?

もともと歌舞伎音楽であった河東節ですが、現在歌舞伎で河東節が効けるのは、『 助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら )』のみとなっており、成田屋市川宗家の専売特許のようになっています。ですから成田屋と河東節は大変深い関係ともいえます。
市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)は歌舞伎役者の名跡の中で最も権威のある名とされています。初代市川團十郎が1660年に誕生して以来、その名は現代まで脈々と受け継がれてきました。12代目市川團十郎が2013年に病死して以来しばらくその名が継がれることはありませんでしたが、12代目市川團十郎の長男である11代目市川海老蔵(いちかわえびぞう)が2020年5月に十三代目市川團十郎白猿(はくえん)を襲名することとなりました。
「白猿」とは5代目市川團十郎が晩年に俳号として用いていたものです。江戸時代「猿は人間に毛が三筋足らぬ」という俗説がありました。これは「猿は人間に及ばない」という意味です。5代目團十郎の祖父は「栢莚(はくえん)」という名であったこともあり、その音「はくえん」にこの俗説を当てはめ「白猿」とし、自分自身がまだ祖父や父に及ばないという意味を込めたとされています。
11代目市川海老蔵もその意味を受け継ぎ、父や祖父への尊敬の念を込めて「團十郎白猿」として襲名することとなりました。

これであなたも河東節マスター!注目の助六をご紹介

歌舞伎ではさまざまな浄瑠璃が伴奏として用いられていますが、河東節は『助六由縁江戸桜』のみに用いられています。『助六由縁江戸桜』は『助六(すけろく)』と呼ばれることが多いです。『助六』は歌舞伎十八番(かぶきじゅうはちばん)の中でも最も人気が高く、上演すれば常に大入りという演目です。歌舞伎十八番とは7代目市川團十郎が市川宗家のお家芸として選定した18種の演目です。
舞台は吉原、そこの花魁「揚巻(あげまき)」とその愛人の花川戸助六(はなかわどすけろく)の物語です。助六は源氏の宝刀友切丸(ともきりまる)を探し求めて吉原に通っています。助六は当代きっての美男子であり、その愛人である花魁の揚巻も絶世の美女です。美男美女が吉原を舞台に繰り広げる大衆劇です。
助六が花道から登場する時の音楽を出端の唄といいます。河東節の出端の唄を『所縁江戸櫻(ゆかりのえどざくら)』といい、これは現在でも市川宗家のみが演奏を許されているものです。ですから他家が『助六』を上演する際はこの出端の唄を長唄や常磐津節、清元節(きよもとぶし)に書き換えたものを用います。『助六』は日本だけにとどまらず、海外からの人気が高い演目です。
ちなみに「助六寿司」の由来はこの『助六』から来ています。助六寿司はいなり寿司と海苔巻きを折り詰めた寿司のことですが、これはいなりの「油揚」の「揚」と「海苔巻き」の「巻」が助六の愛人であった「揚巻」の名前に通ずるというところから命名されました。

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