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【伝統芸能】義太夫節入門!知って楽しい日本の伝統文化

更新日: 2023年11月21日

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日本の伝統文化の一つに浄瑠璃(じょうるり)があります。浄瑠璃は三味線を演奏する三味線方(しゃみせんかた)と三味線に合わせて物語を語る太夫(たゆう)によって演奏されます。現在8流派の浄瑠璃が伝わっていますが、そのうちの一つが義太夫節(ぎだゆうぶし)です。義太夫節は江戸時代に創始された浄瑠璃で、人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)として人気を博しました。人形浄瑠璃だけではなく、歌舞伎の伴奏音楽としてもよく用いられています。浄瑠璃の代名詞となるほど大流行した義太夫節。現在もその人気は衰えず、各地で公演を観ることができます。
今回はそんな義太夫節を初心者の方にもわかりやすく、そして公演を観に行くときのポイントなども一緒にまとめてみました。

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義太夫節とは?意外に知らない基本情報を見てみよう!

義太夫節とは浄瑠璃の一ジャンルです。浄瑠璃とは三味線方(しゃみせんかた)の伴奏に合わせて太夫(たゆう)がストーリーを語るという演奏スタイルで、江戸時代に流行した邦楽です。現在伝えられている浄瑠璃は義太夫節を含め8種類ありますが、その中でも義太夫節は人形を使った「人形浄瑠璃」を得意としています。ちなみに、人形を使わない浄瑠璃のことを、人形浄瑠璃と区別して「素浄瑠璃(すじょうるり)」と呼びます。
浄瑠璃はもともと歌舞伎の伴奏音楽として発展してきた歴史を持っていますが、義太夫節と歌舞伎との関係は密接です。歌舞伎の演目は大きく分けると「純歌舞伎狂言」と「義太夫狂言」に分けることができます。純歌舞伎狂言とはもともと歌舞伎のために書かれた狂作品を指しますが、義太夫狂言とはもともとは人形浄瑠璃のために書かれ、のちに歌舞伎化された作品を指します。現在上演されている歌舞伎には数多くの義太夫狂言が含まれており、義太夫節は歌舞伎においても重要な役割を担っているといえます。義太夫節は豪快でダイナミックな曲調が特徴的であり、太夫の語り口調も高音から低温まで幅広く、とても表現力が豊かな浄瑠璃です。歌舞伎専門の義太夫節の演奏者のことを、義太夫節の創始者竹本義太夫にちなんで「竹本」とも呼びます。
義太夫節は国の重要無形文化財に指定されています。

義太夫節を広めた人って?気になる「竹本義太夫」について

義太夫節の創始者は竹本義太夫(たけもとぎだゆう)です。義太夫は1651年に現在の大阪市天王寺区に生まれました。幼い頃、近所の料亭「徳屋」から流れてくる浄瑠璃に耳を傾け自然と浄瑠璃を学んだ義太夫は、徳屋の主人でもあり、大坂浄瑠璃界の第一人者である井上播磨掾(いのうえはりまじょう)の直弟子だった清水理兵衛(きよみずりへい)に見初められ、浄瑠璃を本格的に学ぶようになりました。
1676年には理兵衛の旗揚げした一座に加わり、25歳で太夫となりました。義太夫の太夫は瞬く間に人気を博し、1677年には京都の宇治加賀掾(うじかがのじょう)の「宇治座」に入りました。その後、播磨節(はりまぶし)、小唄、流行歌、物売りの声など様々な要素を取り入れた「義太夫節」を考案します。しかし、加賀掾の許可なく勝手に義太夫節を上演した義太夫は破門されてしまい、同じく加賀掾と不仲になっていた竹屋庄兵衛(たけやしょうべえ)と共に西国巡業をします。約6年間の西国巡業の後、1684年に庄兵衛と共に大坂にて「竹本座」を旗揚げし、このころから「竹本義太夫」と名乗るようになりました。
ダイナミックではっきりとした口調の竹本座の人形浄瑠璃は人々の間に大流行し、義太夫節人形浄瑠璃の代表格として竹本座はその地位を確立しました。

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いつからあったの?義太夫節の歴史をたどってみた!

創始者の竹本義太夫は、当時流行していたさまざまな音曲(おんぎょく)を取り入れた新しいスタイルの浄瑠璃を考案しました。そして1684年には大坂道頓堀に竹本座を創設し、この時期が義太夫節の成立とされています。作者に近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)を迎え入れ、竹本座は大坂での人気を独占するようになり、浄瑠璃といえば義太夫節といわれるほど竹本座は盛行しました。義太夫は義太夫節を「当流(とうりゅう)」「新浄瑠璃(しんじょうるり)」と名付け、それ以前の浄瑠璃を「古浄瑠璃(こじょうるり)」と呼んで区別しました。
1703年、門弟の筆頭であった竹本采女(うねめ)が独立し、豊竹(とよたけ)若太夫と名乗り道頓堀に「豊竹座」を創設しました。豊竹座も次々と名作を生み出し、竹本座と人気を二分するようになります。両者が競い合い、人形浄瑠璃の人気はますます盛り上がり、技芸面でもその技術は急上昇しました。
1714年に義太夫が、1724年に近松が没し、その間も門弟たちが相次いで豊竹座に移るなどの変化もありつつも、竹本座は新しい作品を次々と生み出し、2代目竹本義太夫も新境地を開くなどして義太夫節の盛行に努めました。
この頃、初世吉田文三郎(ぶんざぶろう)らが人形の改良に尽力し、現在に伝わる人形の「三人遣い」を考案しました。三人遣いとは三人の人形遣いが一つの人形を操る人形操法のことで、これによってより自然で複雑な動きを可能にしました。
竹本座と豊竹座が競い合った時代は約60年間続き、この時代を「竹豊時代」とも呼び、人形浄瑠璃の黄金期とも言われています。

いま有名な「竹本駒之助」さんてどんな人?

竹本駒之助(たけもとこまのすけ)さんは女流義太夫の太夫です。1999年には重要無形文化財「義太夫節浄瑠璃」の保持者として人間国宝にも指定されている女流義太夫界の第一人者です。女流義太夫は江戸時代中期に誕生しました。役者や人形を伴わない素浄瑠璃という形で芸が継承されています。女流義太夫の語りには幅広い音域や声色、写実的な表現などが求められます。
駒之助さんは1935年に兵庫県の淡路島に生まれました。初めて浄瑠璃と接したのは中学生の時でした。人形浄瑠璃が盛んな淡路島で、当時の校長先生が浄瑠璃クラブを作りました。しかしその時の講師が人形遣いであったため、駒之助さんは、お母様の勧めで近所の義太夫の師匠の元で本格的に浄瑠璃を習い始めました。ある日大阪から来た浄瑠璃の一座に見初められ、その後竹本春駒に入門しました。厳しい修行の日々を経験したのち、四世竹本越路大夫(こしじだゆう)のもとに入門することになります。越路大夫は後に人間国宝となった文楽太夫です。厳しくも丁寧な指導のもと、駒之助さんは新境地を開いていきました。
義太夫を務める上で、男性と女性の声帯の違い、腹力の強さの違いなど、ハンディと思われることもありますが、それをハンディとは思わず邁進してきました。家庭と義太夫とをしっかりと両立し、現在も第一線で活躍する駒之助さんは今後の女流義太夫界のさらなる発展を願っています。

これであなたも義太夫節マスター!注目の「三大名作」をご紹介

人形浄瑠璃のことを「文楽(ぶんらく)」ともいいますが、文楽には三大名作と言われている作品があります。『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』(1746年)、『義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)』(1747年)、『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』(1748年)です。これらは浄瑠璃の三大名作であるとともに、歌舞伎においても三大名作とよばれています。当時、浄瑠璃でヒットしたものを歌舞伎化することはよくあり、そのような作品は当然歌舞伎でも人気演目となりました。浄瑠璃は「歌舞伎の母」とも呼ばれますが、それにはこのような背景があるからです。
この3作はいずれも二代目竹田出雲(たけだいずも)、三好松洛(みよししょうらく)、並木千柳(なみきせんりゅう)による合作です。ストーリーが長く複雑になるにつれて、複数の作者による合作が浸透していきました。
この三作はいずれも実際の史実をもとに描かれており、「時代物(じだいもの)」といわれます。一方、庶民の生活や恋などを題材にしたものを「世話物(せわもの)」と呼びます。
この三作品は現在でも大変人気のある演目となっています。

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