このページではインドにあるモニュメント・記念碑を紹介しています。モニュメントや記念碑は、歴史上のできごとや人の功績を称えるために作られたもの。国や地域の象徴、歴史的な事件や戦争、記念日を示す目的があり、その形態は銅像やピラミッド、彫刻、門など多岐にわたります。各地にあるモニュメントは、都市の歩みを刻む歴史スポットやランドマークとして機能しています。ドイツのホロコースト記念碑やシンガポールの戦争記念公園といった戦争記念碑は、戦争による犠牲と深い傷跡を伝え、歴史から現代を見つめ直す機会を与えてくれます。エジプトのピラミッドやイースター島のモアイ像など、かつて存在した文明によるモニュメントは、目的や建築技術など今もなお謎に包まれたものが多く、有数の観光名所になっています。
関連するテーマ 旧市街・古い町並み 広場・公園 市場・夜市 モダン建築 史跡・遺跡 寺院・教会 城・宮殿 モニュメント・記念碑 複合遺産 文化遺産 自然遺産 砂漠・荒野 洞穴・鍾乳洞 森林・ジャングル 滝・河川・湖 草原・平原 山・渓谷 海岸・海 ビーチ・砂浜
カテゴリ
エリア
インドの都市
広告
1〜1件を表示 / 全1件
バナーラス - モニュメント・記念碑,寺院・教会,史跡・遺跡
サールナートはインドのバラナシに位置する「仏教4大聖地」の一つで、敷地内には各国の仏教寺院が建っています。 敷地内への入場チケットは約310円、「ムールガンダ・クティー寺院」や中国の寺院「中華佛寺」、日本の寺院「日月山法輪寺」、他にもカラフルな「チベット僧院」や「タイ寺院」があります。そんなサールナートの1番の見どころが「ダーメーク・ストゥーパ」です。釈迦が説法を説いた場所とされており、建造物にはレリーフが描かれています。周辺には遺跡もあり、合わせて見学できます。 今回は、そんなサールナート周辺の見どころについて紹介します。
1〜5件を表示 / 全14件
アムリトサル - モニュメント・記念碑
マハラジャ・ランジット・シンの像は、パンジャーム州アムリトサル黄金寺院入口近くにある壮大な銅像です。 マハラジャ・ランジット・シンは、北インドのパンジャーブ地方、シク王国の君主で、「パンジャーブの虎」と呼ばれ、パンジャーブ地方のシク教徒の勢力を結集したのち、19世紀初頭にシク王国を創始し、シク教徒の間に統一的な国家成立させました。 また、その領土を北西インド一帯に広め、巧みな外交戦略でイギリスの植民地支配を寄せ付けなかった英雄です。しかし、マハラジャ・ランジット・シンが亡くなるイギリスとのシク戦争に敗れ、シク王国はイギリスに併合されました。
ブッダガヤ - モニュメント・記念碑
巨大な仏像(大乗教インド大仏像)は、ブッタガヤの中心にあるマハーボーディ寺と、そのまわりにある各国各宗派の寺院の一つである印度日本寺にあります。 仏教徒の多いアジアの国々が、この地に敬意を表し、仏教寺院を建立しました。この中に日本の各宗派が共同で建立した印度日本寺があります。大乗教インド大仏は、1989年に建立されました。開眼式には、チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世もご臨席になりました。インド史上はじめて建立された、高さ25mの大仏の誕生を祝福されました。 現在、聖地ブッダガヤにおいては世界遺産マハボディ・テンプルに継ぐ、シンボルとして巡礼者に親しまれています。
カーニャクマリ - モニュメント・記念碑
海上の"像" ティルヴァルヴァール銅像は、インドのカーニヤクマリにある銅像である。ティルヴァルヴァールとは、詩人である。カーニヤクマリは、インドの最南端の地として知られており、海に面した場所となっているが、その海上にこのティルヴァルヴァール銅像が建てられている。
バナーラス - モニュメント・記念碑
アショーカの尖塔(アショカの柱)は、サールナートのムルガンダ・クティ寺院の裏手に位置する遺跡です。 折れた状態で保存されているアショーカの尖塔(アショカの柱)は、紀元前3世紀にインド統一や王位に就く過程で多くの血を流したことを悔い仏教に帰依したアシュカ王によって建てられました。柱にはブラフミー文字で「教団の中で戒律を守らなかった比丘または尼比丘は、教団から追放し還俗させる。」など出家者の戒律が刻まれています。 そしてこの柱頭部には、「柱頭部4頭獅子像」と呼ばれるインド政府の国章となる彫刻が載っていました。この彫刻は隣接する考古学博物館に展示されており、間近に見ることができます。
アムリトサル - モニュメント・記念碑
Jallianwala Baghは、Goldem Templeからほど近い場所にあり、独立運動の起点となった公園です。 1919年この庭園にイギリスが発布した集会禁止令に反対するインド民衆が集まりました。包囲したイギリス軍のダイヤー将軍は、非武装無抵抗の民衆に対して「土民を思い知らせるため」と機銃掃射を命令しました。逃げ道を失った人々は死体の山となって折り重なり、死者379名、負傷者1137名の「アムリトサルの大虐殺」の悲劇となってしまいました。 この事件の影響は大きく、ガンディーを中心にした非協力、不服従の運動が加速するようになりました。
広告